二川宿→白須賀宿→新居宿→舞阪宿
AM 8:02 ゴールデンウィーク中盤!予定がぶっ飛び時間が出来たので再び東海道歩き!
二川宿の二川駅から歩きます!今回は一人旅^^
前回訪れた二川宿本陣!
本陣から少し先に東問屋場
二川宿の風景、ほぼ直線ってかんじです。
「八幡神社」
永仁三年、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮を勧請。黒印地二石を受ける。現在は二川の氏神だそうです。
二川の一里塚。あと日本橋まで七十二里!
「筋違橋」二川宿はこのあたりまでです。次は白須賀宿を目指します!
今日も暑い〜^^ ちょっと一服^^
この辺りはひたすら殺風景な道が続く。江戸道中記に夜道可慎(つつしむべし)と記されているそうだ。
「細谷の一里塚」二川の一里塚からもう一里歩いてしまった。何か書いてある・・・・
一里塚が最近何となく歩く目安になってきている
東海道はここから国道1号線を外れ左へ進みます
おっ!もしかしてあの看板は!
キター!静岡県(遠江の国)!
「境川」 この小さな川が三河の国と遠江の国の境!
つまり愛知県と静岡県の境だ!
いよいよ白須賀宿に入ってきました!
早速宿場マップ!
白須賀の須賀は砂浜を意味し元は浜辺の宿場だったそうだ。宝永四年(1707)の大地震による津波で
宿場の大半が流出し、翌年坂上の現在地に移ったそうだ。
高札場跡
ひっそりとした宿場風景です
何だこの木は? 何か書いてある
白須賀宿は自然災害で苦しんできた歴史があるのか〜
夏目 甕麿(なつめ みかまろ)江戸時代後期の国学者
脇本陣跡
本陣跡
桝形の道(曲尺手)
道が曲がっているところに曲尺手の説明がありました
静かな町並み
「白須賀小学校」 東海道は小学校の敷地内を通っており今は無い為学校を沿う道を行きます
おおーっ! 太平洋だ!
「潮見坂公園跡」
織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に戻る際、家康が茶亭を設け信長をもてなしたそうだ
公園から見える景色
潮見坂上の石碑群
「おんやど白須賀」 ちょっとおじゃまします。
白須賀宿の歴史文化が紹介されている。また東海道を歩く人、宿場を散策する人の交流休憩地として活用されている。
東海道をあるいてて度々ハイカーにやさしい施設が登場する^^ ありがたい!
おんやど白須賀にて一腹^^ のどかでいい場所です^^
「潮見坂」
広重絵の白須賀宿潮見坂 潮見坂を通る大名行列が描かれている
潮見坂にある看板!潮見坂は富士山を望む最西の地だそうです。
潮見坂 古道の空気を感じますね〜
坂の終盤は直線になっている
潮見坂を下りてきました!
地図でみるとひたすら直線が続く感じだ!多分この辺りが元町だと思うが・・・
元々の宿場はこの辺りってこと?・・・
一里塚跡と高札場跡
ふと横を見る!おっおもしろい! 今自分が歩いている道は江戸時代の道。その少し海側に国道42号線。さらに海側に潮見バイパス。
山すその道から時代とともに離れていく事がわかる!これがまさに道だ!^^
立場跡
津波避難経路が地面に書かれている!辺りを見ればあちこちに避難経路の看板がある!
やはりこれは宝永四年の津波の被害があったからの心構えなのかな・・・・
「松並木」 この近辺の松並木は松喰い虫の被害で全滅したそうだ。この松並木は昭和六十二年に植え直したらしい
松並木を抜けたら国道1号線に出る。そしてこの「橋本」交差点を左に曲って新居宿に入っていく
「棒鼻跡」 新居宿の始まりだ^^
新居の地名は波が「荒い」ところからきたらしい。 新居と言えば新居の関所だ!
関所は慶長五年(1600)に設置されたが度々の地震や津波に襲われ現在の場所に落ち着いたのは宝永五年(1708)で
「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まった。
新居の一里塚
「寄せ馬跡」東海道の宿場」では公用荷物や公用旅行者の為に人馬を提供する義務があり
常に百人の人足と百匹の馬を用意したそうだ。それがこの場所のようだ。
「疋田八郎兵衛本陣跡」 疋田家は庄屋・年寄役を務めたそうだ。
「飯田武兵衛本陣跡」 建坪百九十六坪。明治天皇行在所となった。
「旅籠 紀伊国屋」 紀州藩の御用宿だったそうで今は資料館となっている。
おっ!
名物「あと引きせんべい」 ゲット!
おーきましたね〜^^ 新居の関所!全国で唯一現存する関所建物だ!
天下統一した徳川家康はまず交通路の整備に努め五街道をつくった。江戸の防衛を目的として各街道に関所を設け
関所では「入り鉄砲と出女」といわれるように江戸に持ち込まれる鉄砲や武器に目を光らせ、
また江戸から出る女性に対し厳しい調べを行ったそうだ。
「渡船場跡」
絵と同じだ^^
面番所
「関所の石樋」 面番所を挟んで雨水を流す側溝があり浜名湖へ注ぐ先端にこの石が使われていたそうです。
「書院」
「面番所内部」20畳と25畳に分かれている。
「常備武具」
関所役人は、番頭・給人・下改・賄役・番所足軽・往還女改之女など四十人前後が交代制で任務していたそうだ。
「常備武具」
「常備武具」
面番所裏側
「足軽勝手」
ちょっと読んでみる・・・・・
面番所裏側
面番所横手に元々赤色であったであろう桶があった。消火用のものであろう。
面番所横から
新居の関所を通過し次は「舞阪宿」へ向かいます!当時は船の渡しで行ったが今は電車だ!
この浜名湖の渡しを「今切の渡し」といい淡水湖であった浜名湖が1498年の大地震により
一部が切れ海と繋がった。この切れ口を「今切口」というそうだ。
電車をまっている間の一服^^
電車がきた!
舞阪駅に到着! 船着場まで直行!
「北雁木」東海道は新居から一里半の舟旅で舞阪のこの場所に着く
雁木は身分に応じ、北・本・南とあり、この「北雁木」は主に幕府・公用役人が利用したそうです。
このように整備されている
なになに・・・・
広重絵「舞阪」
次に「本雁木」に向かいます!
弁天神社? 弁天神社は今切の渡しの海上守護を祈願したものだそうです。
「本雁木跡」到着!
近くに説明書きが
「西町常夜灯」文化十年(1813)建立
西町常夜灯について書いてある・・・・
「脇本陣」見学が出来るみたいだ!行ってみよう^^
この脇本陣について書いてある
玄関をのぞいてみる!
「下湯殿」
「炊事場」
八畳間、中庭の奥に下段二の間、下段一の間、上段の間と見える
二川の本陣でも気になったがこの釘?というか・・・これは何と呼べば?・・・ 飾りがしてあるのに気になった。
「上段の間」
「上湯殿」
「御厠の縁側」やはりここも雨水で手を洗う造りになっている
「御厠北」
「御厠南」
「中廊下」
二階に展示してあった籠
脇本陣の向えにある本陣跡
CGI!
浜松宿方向へ向かう舞阪宿風景
「舞阪の一里塚」文化十二年(1815)建立常夜燈
「見付石垣」
この石垣は舞阪宿の東のはずれに位置している。宝永六年(1709)の古地図にはすでに存在している。
見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここの六尺棒を持った番人が経ち、人馬の出入りを監視するとともに、
治安の維持にあたった所である。
国道1号線を横切ると松並木が現れる。
この松並木は慶長九年(1604)徳川幕府の命により街道を
整備し黒松を植えたのに始まる。正徳二年(1712)には舞阪宿の東端見付石垣より馬郡境まで八町四十間(約920m)
道の両端の堤に1420本の立木があったという。その後寿命や台風で減る一方そのつど補植など行って来たが
昭和13年国道付換えの際両側に歩道を付け今の姿になった。現在700m株数330本旧東海道の面影をよく残している。(看板より)
ここに舞阪宿唯一の橋があったそうです
今回の東海道歩きはここで終了です!
ここの交差点を左に曲がると舞阪駅があります。ここで東海道から外れます!
次回は、浜松宿、見付宿と歩く予定です!いや〜いつまで続くのだろう静岡県!^^
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