笠松山(愛宕山)登山 2011/06/25


舞鶴湾の戸島から東側、東港の古名を"枯木浦"といいます。その名の由来については、

「丹後風土記」の一説、枯木浦に興味深い話を残しています。

 「昔、少彦名と大巳貴(大国主尊)の二人の神がこの地で国を造ろうとしたとき、海に清らかな島が欲しいと思った。

島を集めるため、笠松山に登り大きな声で"カレキカレキ(おいでおいで)"と呼んだ。すると、四つの島が集まってきた。

これが枯木浦の名の由来である」と伝えています。二人の神が登った笠松山とは、舞鶴湾の東側にある愛宕山で、

呼びかけに集まった四島は、淵島(現在の浮島)、烏島、蛇島、戸島であると言われています。

一番大きい戸島は、枯木浦を外敵から守るために入り口にとどまり、戸の役目を買ってでた。

そこで、その名が付いたとも伝えられています


また、愛宕山には海軍の防空用の高角砲陣地があったそうです。




泉源寺からSTARTです
















トラックポイントです
前半神社付近の滞在時間がながいです。
















トラックプロパティーです!

















START

















 京極マリア 」

天正9年(1581年)、夫と共に安土城城下でオルガンティノ神父より洗礼を受け、

洗礼名としてドンナ・マリアを授かるが、その数日後に夫は死去する。

天正15年(1587年)にバテレン追放令が豊臣秀吉により発せられた後も信仰を貫き、

秀吉の側室となった竜子を除く4人の子が洗礼を受けたとされる。京、大坂での布教活動を経て、

関ヶ原の戦いの後には次男の高知が領した丹後国泉源寺村に移り住み、高知の庇護の

下此御堂という建物を中心に布教活動を行い、更なる信仰を深めたという。

泉源寺村は若狭との国境に近いことから選んだとされ、長男が領する若狭の小浜にも

たびたび足を運んだともいわれている。

地元の民には「泉源寺様」と呼び慕われ、元和4年(1618年)7月1日に没した。

法名は養福院殿法山寿慶大禅定尼と伝わる。








山頂目指し突入!
















しばらく歩くと行き止まりになる。。龍の口から水が出ている。。これはいったい・・・・

















少し引き返し違う道を行くと神社にでた。
泉源寺・愛宕・市場の辺りが一望できる。
















これぞ神社!って感じの建物です。その後ろの山の山頂を目指します!

















山の中腹あたりでコンクリートの何かを発見しました!
















愛宕山には海軍の防空用の高角砲陣地があったそうで、その何か?かな? おそらく戦時中の物です。
















山頂に到着!とにかく蚊が多くてここでの朝食を断念!下の神社に変更!
















山頂周辺です!今は木が沢山ありますが、この木が無いと想像すればかなり大きくて広い人工的な地形をしています。
















コンクリート製の何か? です。
















やはり山頂はかなり広いです。昔ここで何が行われていたか・・創造がつかない・・・
















山途中!木が生い茂り草がボーボー!じめじめして蚊がいっぱい!  これぞ舞鶴だ!
















下山途中!何か石柱を発見! 字が読めない!
















下まで来るとお地蔵さんがたくさんある。。「四丁・・・」と書いてある。おそらく昔の道しるべであろう。
















熊の神社へ続く道です!小学校のころカブトムシをよく捕まえにきた場所です
















再び神社に到着!境内を観察してみると「海軍・・・・」という、お札があった。

やはりこの山は海軍とのつながりが強いのか?
















蚊の集中攻撃をクリア! ご満悦のJUNくん。
















食メニューは、最近はまっている、餅と熱いお茶!
















餅焼き開始!
















昔の人たちも、ここで餅とお茶を食べたのであろうか?きっと食べたに違いないと思う!
















わさび醤油・・最高
















甘いの・・最高!















少し違うコースから下山、途中絶えずにお地蔵さんがおられました。















「八丁 いち?」と書いてある。市場まで八丁ってことかな?
















下山完了!とにかく蚊が多い山でした。







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