京街道・若狭街道

真倉 〜 松尾寺駅
2009/4/5





今では普通に舞鶴を横切る国道27号線…。

いったい江戸時代の旅人たちはどのように舞鶴を横切っていったのか?

と言うことで今回、丹波丹後の境、「真倉から田辺城下に入り松尾寺駅」までの

古道(約30km)を歩いてみた。




北丹後国加佐郡!!  出発記念写真!!AM8:00 












まず寄り道!

一の瀬橋を渡り西へ入り、「紫竹山稚児ヶ滝不動明王」と「稚児ヶ滝」へと向かいました












境内には、幻の木と言われる「槻の木」が生えています。古くはケヤキを槻と呼んでいたそうです。

万葉集や丹後風土記にも登場し、江戸時代にも神木として記録され、伝承によると、江戸時代から

俳人などの訪れもあり、「槻の木」として句枕にも詠みこまれることが多かったそうです。










境内の奥に「稚児ヶ滝」高さ8mの二段の滝があり、「不動の滝の水でイボがとれる!!」

ペットボトル一杯の滝の水と小石一個をいただいて帰り、

その水をかけた小石で「イボを取ってください」と願いを込めこするといいそうです。












再び、今は舗装されている京街道を田辺城下へ向け出発しました。














しばらく歩き、資料によると、この線路の横の山すそに古道があはずなのだが…












どうも古道らしき道を発見することが出来ませんでした。あえなく断念!!













しばらく歩き真倉の村へ入り「善通寺」に行くと地元の方がおられ

真倉の昔話について貴重なお話を聞かせていただきました。












地元の方の話によると、真倉の村で以前、名武将のヨロイカブトが発見されそれは、野氏荒神(のうじこうじん)

と呼ばれ、真倉の後野性の方がその末裔とされ今も大切に祀られているそうです。また、真倉には、

宝物が眠っているという話も…聞かせていただきました。参勤交代のお殿様が、境内にそのつど

雪隠、湯殿を建てここで身なりを整え城下へ入ったそうです。ありがとうございました。












しばらく歩くと、公会堂がありました。昭和16年に中筋校南舎を移築したそうで、

ここは、江戸時代に国境番所があり旅人のチェックをしていたそうです。














公会堂から少し歩くと、渡瀬橋にさしかかります。

昔は橋がなく、大名行列も歩いて渡ったそうです。













資料によると、そのまま国道に出て国道から斜め右に入っていきます。















国道の右側に古道があるとのことです。この田んぼから一段上の道が

そうなのか?とりあえず歩いてみました。














しばらく歩くと右側に馬観音が現れました。江戸時代には小さな祠があり

京極家の名馬を祀った馬の保護神だそうです。

このあたりの古道は国道27号線の改修工事ですっかりなくなったそうです。













再び古道が現れ、田辺城下に向け歩いていきます。















少し歩くと右に一里塚発見!! 「田辺大橋ヨリ壱里」 とありました。

このあたりは江戸時代の面影がよく残っている京街道です。















再び田辺城下に向け、京街道を進みます。















しばらく行くと法華塔がありました。この法華塔は天保十年(1839)に、京田の

善福寺の住職が建てた大乗経典を書写した記念塔だそうです。














再び、田辺城下へ向け京街道を進みます。

















秋葉橋を渡り土手から西舞鶴平野が広がります。昔はここから

五老ヶ岳、槙山、愛宕山、と白いお城が見え絶景だったそうです。















石柱発見!!

「右まつのを若狭 左御城下ミやづ」と刻まれている。

京田の大庄屋高田久兵衛さんが布施した道しるべだそうです。

ここから斜めに七日市に進んで行きます。
















古道は七日市に進んでいきます!

七と一のつく日に市場があり、中世からの京街道だそうです。

















しばらく歩いて行くと左側に「真名井の清水」が現れました。ここは、江戸時代に藩が「御水道」として管理し

「田辺城内・城下町」へ配水されていたそうです。またこの水を使い伊佐津では紙すきが盛んだったそうです。
















古道らしくグネグネした道を城下へ向け進みます。

















国道を渡り高野川を渡り、出雲谷川にかかる「京橋」にきました。

ここの川原で京極時代に一揆の相談をしたということです。








このあたりは染料が香り、藍壷が並ぶ染物の町だったそうです。

















いよいよ「広っぱ」に到着しました。このあたりは馬のつなぎ場があり

旅の終点だったそうです。



















この「広っぱ」には昔の芸屋台などが展示され昔のにぎわいが聞こえてきそうです。



















やっと京街道の起点となる「田辺大橋」に到着しました。

細川時代には長さが20間あり、町でもっとも繁華なところだったそうです。

篭城戦の時はこの「大橋」を挟んで激しい攻防戦が行われたそうです。














この城下町は宮津についで全国3番目の近世型城下町で物流を盛んに

するための港を持ち、短冊形の地割と二間半の道は現在も同じだそうです。

平野屋町では16軒の鍛冶屋がありいつも槌音を響かせていたそうです。

道は、国道にあたり左に曲がり広小路を右に曲がり二筋目を右に曲がります。

















道は小さい川に沿って進みます。これって、お堀のあと?












城下町を抜け「二つ橋」まで来ました。たもとのお地蔵さんに道標がありました。

















時間は12時半を過ぎ はらぺこの僕たちは 伊佐津川の河原で

お昼ごはんにしました。メニューは「焼きそば&ホットドック」!!















12玉の焼きそばがどんどんペコペコ胃袋に吸い込まれていきます。






















ホットドック完成!!





























まずい要素の無いこの食べ物は最高!!

















食後のコーヒーを飲み話がはずむと、時すでに 14:30になっていた。

このとき、全員今日中に松尾寺駅には着けないと思っていた!!
















二つ橋を渡りまっすぐな道を「御成街道」とよばれまた「泉好縄手」とよばれたそうです。

倉谷あたりの若狭街道を東に進んで行きます。















サンデ川を越えて福来村に入り上安から来るイモジ道との辻村付近はセイサツと呼ばれ

制札が立てられていた交通の要衝だったそうです。自然石の常夜灯や日限り地蔵さん

があり、この先の天台までの古道は、道路や宅地造成でほとんどわからなくなっているようです。















福来の住宅地を抜け、再び若狭街道の清道を行きます。




















線路を渡りいよいよ白鳥峠にさしかかります。























白鳥トンネルの横から峠を越えて生きます。1756年の全藩一揆により、堂ノ奥村喜左衛門は

打ち首となり、白鳥峠で獄門にかけられたそうです。 白鳥トンネルの工事は難工事の連続

だったらしく、殉職者のお墓が清道の墓地にあるそうです。




















白鳥峠の頂上付近です。意外と道は広くいい感じでした。
















白鳥峠から東におりる道は山道ながら古道がよく残っております。

平地に降りた場所に松の木が二三本あり、そこに下駄屋さんがあり戦前に清道の人が下駄を直して

もらいに通ったそうです。また、峠よりに巡礼の接待堂があり、旅人に湯茶を出し泊まることも出来たそうです。


















白鳥峠を下りいよいよ東舞鶴の森へと来ました。






















三本木あたりを歩いていると…。友人にバッタリ!!

「そんなかっこうして何しとん」?

真倉から松尾寺まで歩いとる!楽しそうやろ?!

「えっ!!」

楽しそうやろ???

「えっ…。     う、   うん…。」

という事でここで一人仲間に加わった!

彼は酒をたらふく買い込み家で一人楽しく過ごす予定だった



















街道のそばにある我が家にひとまず到着!!時すでに16:30 。

いらなくなった荷物を置き軽装備で松尾寺に向け出発!!

























若狭街道は、森〜朝日通り〜矢ノ助〜市場〜志楽 と続きます。




















森の踏み切りを超え突き当たったところに、「立石」とよばれる大きな道しるべがあります。

左に曲がるとい現在の三条朝日あたりで四つ辻になり、「浜村の辻仏」とよばれ名号塔や道しるべが

たくさんあったそうです。そこには二里塚があり、現在その石柱は得月寺に移されているそうです。





















与保呂川にかかる「西国橋」に来ました。

昔の東舞鶴のい中心は市場の辺りらしくこの橋は西のはずれに位置した事から

「西国橋」の名前になったそうです。


















我が母校の新舞鶴小学校のさくらの木です。

小学校のころ、このさくらの木の下に宝物をうめた記憶があります。

しかし、はっきりした場所をわすれてしまった!!残念!!
















あやしげな一行が矢ノ助を通過していきます。


















いよいよ志楽まで来ました。左手に泉源寺の村と愛宕山がみえます。

幼いころよくあの山に登って遊びました。

きっと僕の先祖も見たであろうこの風景は家が増えたものの昔と変わらないのでしょう。















陽もずいぶん傾むいてきましが、 何とか明るいうちに、松尾寺駅につきそうな感じがしました。

しかし、ここまで来ればみんな体のあちこちが痛くなり、歩き方がロボットのようで…。

さぞかし、滑稽な集団にみえた事でしょう…。いや、明らかに滑稽な動きだった。




















田中橋に到着!! 「西国二十九番松尾寺」 の道しるべ

これは比較的新しい道しるべでした。

ここから田中の村に入り、鈴鹿神社で休憩することにしました。






















鈴鹿神社に到着!! ひとまず休憩!!

鈴鹿神社の祭礼はだいたい10月下旬の日曜日だそうです、府登録文化財の伝統芸能奉納は5年に1度だけだそうです。





















とりあえず、おやつに買っておいた「ポップコーン」をたべることにした!!

また、仲間の家族も僕たちにエールを送るため駆けつけてくれました。

「あー、あしがいたいっっ」。




















安岡の村に入ってきました。左手に大きな石灯篭がありました。

そういえば、振り返って見ると、昔の交差点あたりに灯篭があったように思います。

周りを見渡すとやはり鹿原に続く道がありました。電気の無い時代を想像するのは少し難しいです…。





















「おーゴールがみえたー!!」
























PM 6:30 「松尾寺駅とーちゃーく!!」 「何とか明るいうちに着いたぞ!」

江戸時代に比べれば、遥かに進化した靴や道路、しかし、歩く事、歩き方は退化したのでは、身をもって少し感じました。

今回は、昔の主要道路を歩きましたが、まだまだ舞鶴の、伝説の道 民話の道 を探検して行きたいと思います。