舞鶴要塞

舞鶴要塞地帯地図(市史より)  


舞鶴要塞は、舞鶴軍港防衛のため永久の防禦工事をもって構築された鞏固な陣地のことで、

要塞には沿岸に近づいた敵の艦船や上陸部隊を攻撃するための砲台が、いくつか配備されていた。

日本国内には十ヵ所の要塞が設けられ、舞鶴要塞の完成は明治35(1902)年11月であった。

当初、砲台(堡塁砲台)は舞鶴湾入口の東側に葦谷、浦入の二ヵ所、西側に金岬、槙山、建部山の三ヵ所、

さらに舞鶴の東の吉坂峠に一ヵ所、そして舞鶴湾の最先端にあたる博奕岬には電灯(探照灯)が設けられていた。

これらの砲台に弾薬を供給するために、下安久と白杉にそれぞれ弾薬庫がつくられた。

日中戦争がはじまり太平洋戦争へと拡大する中で砲台は次々に増設された。

これらの砲台の管理や運用、また要塞内の防衛は陸軍が担当し、陸軍舞鶴要塞司令部と重砲兵聯隊が上安久に設けらた。

↓舞鶴要塞の砲台位置(『日本の要塞』(学研社)より)
舞鶴要塞の砲台

さてそのようなことで強いはず、勝つはずと誰もが疑うこともなく信じていたのであったが、

実際に敵軍がやってきて戦争となって、これら要塞が実際に火を噴いて戦うこととなってみれば、

縦横無尽に飛び回る敵機をなすすべもなく見上げるばかりで、戦果は敵機撃墜数ゼロの完敗。

米軍側の記録によれば、この舞鶴空襲で対空砲火により空母インデペンデンスの

グラマン艦上攻撃機1機が撃墜され3名が死亡した。同日の宮津空襲ではコルセア1機が撃墜され1名が死亡した、

宮津は文珠の国道上に墜落したため市民も知っているが、舞鶴はどこへ落ちたものか誰も見た者がないようである。